「偶発性」に目を向けることは、どうして大切なの?

こんにちは。編者の一人である小西です。

本書のなかでは、特に異種混淆性や偶発性に身を晒すことの大切さを表現しました(本書の第4章参照)。ここでは、ちょっと違った角度からこの「偶発性」の持つ重要性について考えてみたいと思います。

将来の進路について尋ねると、「普通の人生でいいです」と表現する学生さんが少なからずいます。波風を立てたくない。危険や大きな悲しみを得たくない。平穏で安定したリスクの少ない人生で十分満足です、という表明です。話を聞いてみると、適当なところに就職し、適当な相手と結婚し家庭を持ち、そこそこの幸せを得られたらそれでいい、という発想から生まれた言葉であることがわかってきます。

こうした学生さんたちが抱く漠然とした人生観・幸福観を否定することはできません。成長の過程で徐々に身につけていった考え方なのでしょうから。一方で、それなりの人生経験を経てきた人生の先輩たちは、「世の中そんなに甘くないよ」と言いたくなるのだと思います。

この「甘くない」というのはどういうことでしょうか。そこに含意されるのは、流動性と不確実性の増している現代社会で、「安定」を求めること自体が極めて困難なこと、そうした時代背景がなかったとしても、人生というのは一筋縄で行かない突発的な出来事に溢れているということ、そしてどこを見渡しても「普通」を生きている人というのを見つけ難いということなどが挙げられます。

タイ・バンコクのチャイナタウンにて。入り組んだ裏路地には想像もできなかった生活世界が広がっていた。(筆者撮影)

外見的には「普通」を体現しているような人であっても、色々と話を聞いてみると、大きな悩みを抱えていたり、人生の過程で多様な困難に直面してきたことがあったり、人には言えない秘事を抱えていたりすることがあります。徹底して波風を立てず、事なかれ主義を貫こうとする人であっても、ライフステージに合わせて越えるべき困難なハードルを乗り越えなければならない。私たちは大小さまざまな選択肢を、折にふれて突きつけられ、その選択が正しかったのかをその都度思い悩みながら生きていきます。

その選択を難しくしているのは、生きるということが他者とのつながりや相互作用を前提としていることでしょう。全てを自身のコントロール下に置くことができない(常に他者との折衝や介在・干渉にさらされる)ことが、人生を複雑化させていく大きな要因の一つとなります。

人生がこのようなものであることを前提としたときに、私たちが手に入れなければならないのは、幅広い選択肢と判断力、それを支える柔軟な思考力と他者との交渉力でしょう。安易に答えが得られないのであれば、多様な選択肢の前に自らの決定権をしっかりと行使していくことが「自らの生を引き受ける」ということであり、そうした積み重ねが人生を彩っていくことになります。

本書でも触れたように、制度化された学校教育の文脈では、固定化された知識を引き受け、「正しいこと・善いとされること」や「正解」を導き出す訓練に重きをおく「形式的学習」が構成されています。つまり、ある種の予定調和性を身体化していくような過程です。

メジローはそこで構成された意味パースペクティブに、偶発的な他者の交渉過程を掛け合わせていくことで、はじめて自己変容が可能になると表現し、それこそが「おとなの学び」を構成するといいます。これこそが自律的な思考力を研鑽する過程だと。裏を返せば、自己の生を引き受けてこそ「おとな」となる、ということだと思います。

最初に提示した学生さんたちの例は、「普通」という名の、外部から構成された意味パースペクティブの断片を手放さないという表明をしていると言い換えることができます。自身の生を引き受けることができるだけの自己肯定感を失っている状況も見て取れるでしょう。

私たちは本書で、自己の生を引き受ける過程として「自己変容型フィールド学習」の可能性を提示しましたが、このことは「普通」を疑い、他者とともに偶発性を生きる力を醸成していくための適切な学習デザインの一つとなりうるという確信に支えられています。<なじみの世界>から<なじみのない世界=フィールド>へ、<普通>から<異質>な世界(=フィールド)へと一歩を踏み出すことは、このような意味で「おとなの学び」へと向かう貴重な契機となりうるのです。

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