みなさんは「SNSって疲れる…」と、感じたことはありませんか?
前編に続き、文化人類学者・二文字屋脩さんが、タイに暮らす少数民族“ムラブリ”の文化から、私たちにとって適度な距離感(=他人とのつながり方)を追求していきます。
相手に干渉しすぎることの危険性
唐突だが、私にはムラブリの家族がいる。父親と母親がいて、4人の妹と3人の弟がいる。ムラブリと結婚したからではない。彼らの村に住み始めて数ヶ月したころに、私を息子や兄として受け入れてくれた家族のことである。
そんな彼らと一緒に暮らしていたある日、母親が妹を怒り、目に涙を浮かべながら手を上げたことがあった。妹が黙って近くに暮らす他民族の男性の家に泊まったことが、母親の逆鱗に触れたのだ。ちなみに、原因が何であれ、ムラブリでは喧嘩、ましてや暴力を伴う喧嘩はほとんどない。だからあの日の出来事は強烈だった。
話を戻そう。母親は妹を不器用に打ったが、誰も止めに入ることはなかった。すぐそばにいた父親は、焚き火の前にしゃがみこんで、ことの成り行きを横目で見ていた。そこで私も焚き火の前に座った。しばらくして、妹は家を飛び出し、母親は布団に潜った。そして男二人でこのことについて話し合っていると、父親はぼそっと、「くっつき過ぎてはいけない」と私に言った。
一見、よくある過保護な親と反抗期の娘のエピソードのようだけれど……どうやら叱ったのには、もっと深い理由がありそう。
最初は何を言っているのか、意味がわからなかった。「誰がくっつき過ぎたのか」「そもそも“くっつく”とはなんなのか」。でも話を聞いていくうちに、母親が妹にくっつき過ぎたのがいけないこと、くっつき過ぎたからあのような出来事が起きてしまったのだということがわかってきた。「くっつき過ぎてはいけない」とは、要するに「相手に干渉しすぎてはいけない」ということだった。
母親が妹に手を上げたのは、母親が妹に過度に干渉したからである。確かに妹の行動は褒められたものではない。見知らぬ男の家に行ったとなれば、親ならなおさら心配することだろう。でも妹はもう子供じゃない。自分の頭で考え、自分で行動することができる。
たとえそれが好ましいことではなくても、それは彼女が自分で考えたことなのだから、たとえ母親であろうと彼女の問題に介入してはいけない。いや、正確に言えば、介入し過ぎてはいけない。「手を上げた」という行為は、それが行き過ぎた行為だったと父親は考えていた。
ムラブリ語で「くっつく(tit)」とは、日本語と同じように、「物と物が接着する」ということを意味する以外にも、「親しくなる」とか、「つながる」という意味をもつ。毎日毎日、顔を突き合わせて生活している彼らは、生活する上でいろんな相手とつながりを持つ。
人間にとって、それはとても自然なことだ。私たちだって、家族や友人などと深いつながりを持っている。時に喧嘩して相手のことが嫌いになっても、やっぱり無視できない存在であることに変わりはない。
それはムラブリでも同じだ。ムラブリでも「くっつくこと」それ自体は否定されてない。しかし「くっつき過ぎること」に彼らはとっても否定的な態度を取る。「くっつくこと」は、相手とより良い関係を築く上でとても大切なことだけれども、それが限度を超えると、相手を尊重することを忘れ、相手の自尊心を一方的に傷つける危険性を孕むことになると考えているからだ。
友達から恋愛に発展して恋人同士になったけど、お互いの距離が近くればなるほど相手に多くを求めるようになり、関係が上手くいかなくなってしまったこともあったような……。
満たされることがない、社会的欲望
今村仁司という社会哲学者がいる。残念ながら2007年に亡くなってしまったが、私たちにたくさんの知識と知恵を残してくれた偉人だ。そんな彼は、2005年に出版された『抗争する人間』(講談社)という本のなかで、「人間とは欲望そのものだ」と言った。そして彼は、私たち人間が抱く欲望を身体的欲望・社会的欲望・想像的欲望の三つに分けて説明し、生きるというのはこの三つの欲望を満足させることなのだと主張した。
ここではそれぞれの欲望に深く立ち入ることはしないが、ここで一番理解しやすいのが、比較的簡単に満足を得ることができる身体的欲望である。例えば食欲。お腹が空き、何かを食べて満腹になれば、私たちは満たされる。しかし、二つ目の社会的欲望はそう簡単には満たされない。
社会的欲望とは、言ってしまえば承認欲求のことである。「私は私だから」とつっぱねる人もたまにいるが、それでも私たちは自分一人だけでは生きていけない。「私」が存在するためには、誰かに認めてもらう必要がある。たくさんの人から称賛されなくてもいいが、周囲にいる人たちには「私」という存在を認めてもらいたいと誰もが願っていることだろう。
でも、この欲望は少し厄介だ。食欲・睡眠欲・性欲という、いわゆる「三大欲望」に代表される身体的欲望とは違い、そう簡単には満たされない。終わりがないのだ。社会的欲望は物質的な満足感に根ざしてないので「満腹」になることは決してない。
確かに社会的欲望は、「社会」というワードが入っているだけあって、自分以外の誰かありきで成立する唯一の欲望。他の欲望と違って、自分でコントロールもできない不確かなものだから、満たされることが難しいんですよね。
「お前次第だ」という、ちょうどよい距離感
「大丈夫、私はあなたのことを認めている」と言われても、ちょっとしたことでその言葉に疑いをもつこともあるだろうし、どんなに偉くなっても、どんなにお金持ちになっても、どこか満たされないという悶々とした気持ちはずっと残るだろう(私は偉くもないしお金持ちでもないので分からないが)。
だから私たちは常に誰かを必要とする。終わりがないからこそ、私たちは誰かとつながりたいと欲するし、良好な関係を維持しようと努力する。
しかし終わりがない社会的欲望である承認欲求には常にある種の危険性が伴っている。「認めてもらいたい」という欲望が強ければ強いほど、相手への尊重をないがしろにしてしまう可能性があるからだ。極端なことをいえば、自分を認めてもらえる時以外、相手は必要ではない。でもそれはとても独りよがりだろう。
相手もまた自分を認めて欲しいと私を求めているし、それを私は満たしてあげないといけない。それに、承認欲求が強ければ強いほど、相手よりも優位に立ちたいという気持ちが芽生えてきたりもする。「あの人より私の方が恵まれている」とか「あの人より私の方が幸せだ」とか、次第に相手と比較して、相手よりも優位に立ちたいと欲してしまったりする。
そんなとき、ムラブリは一つの解決策を私たちに提供してくれているように思える。確かに私たちの感覚からすると、ムラブリはどこか冷たい人たちであるかのような印象を覚える。でも彼らはつながることを軽視しているわけではない。むしろその逆である。
つまり彼らは誰かとつながることが自分を生かしていることと同時に、誰かを生かしていることを経験的に知っているからこそ、相手とうまく付き合っていくために、「お前次第だ」と言って自分から距離をとる。それは相手の欲望を否定することなく、かといって欲望を正面から受け止めることなく、相手の存在を静かに認めることだ。よりよい関係を維持するために、自分は相手の欲望を満たす道具ではないことを間接的に明示しながら、相手とのちょうどよい距離感を測るのである。
「キズナ中毒」に犯された、私たちに必要なこととは?
意外と知られていないことだが、「絆」には「キズナ」の他にもう一つの読み方がある。「ホダシ」だ。これは「動物をつなぎとめる綱」や「自由を束縛するもの」を意味する。つまり「絆」とは、親密さや紐帯を意味する一方で、呪縛や束縛を意味する言葉である。
ということは、ムラブリはつながることよりもつながり過ぎないこと、つまりキズナよりもホダシにより関心を払っている人たちと言えるかもしれない。相手に対して自分から距離を取ることが、ムラブリにとっては「キズナ中毒」に陥らないための一つの処方箋ということになる。それは、自分を守ると同時に相手を尊重することにもなる。
最後になるが、今村は『抗争する人間』の中でこうも言っている。「自我としての欲望、あるいは欲望としての自我を可能なかぎり零化していく(零に還元する)努力は、倫理的努力と呼ばれるにふさわしい」(pp. 21-22)。
さて、キズナ中毒に犯された今の私たちに必要なのは、どんな努力だろうか。
二文字屋脩
「誰かと繋がっていたい」「誰かに認められたい」という気持ちが、時には相手の自由を奪い負担をかけてしまう。「あなた次第」と相手の言動に委ね、程よい距離感を保っているムラブリは、人間関係において“信頼を築くこと”を何よりも大切にしているのかも。
▶︎彼らは言う「つながり過ぎてはいけない」と。【前編】を読む
※本記事は、二文字屋脩 2020 「ふたつの絆――つながらないとダメですか?」『ダメになる人類学』吉野晃 (監修)、北樹出版、pp. 110-113 を、大幅に加筆修正した上で転載したものです。
二文字屋 脩 プロフィール
早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター講師。博士(社会人類学)。「森の民」として知られるタイ北部に暮らすムラブリや、都心部で生活するホームレスの人々を対象にフィールドワークを行っている。近著に『逃亡者の社会学』(アリス・ゴッフマン 著、二文字屋脩・岸下卓史 訳、亜紀書房、 2021)、『人類学者たちのフィールド教育ーPBLと自己変容型フィールド学習の接合』(箕曲在弘・二文字屋脩・小西公大 編著, ナカニシヤ出版, 2021)がある。ソロキャンプに行っても、キャンプ生活が日常のムラブリの村で調査していたからか、周囲のキャンパーが何をしているのかが気になってしまう。お酒を溺愛。