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Shu Nimonjiya
Shu Nimonjiya
2021/02/15 / Published in topics

彼らは言う「つながり過ぎてはいけない」と。【前編】

今や私たちの生活に欠かせないものとなったソーシャルネットワー
キングサービス(SNS)。

文化人類学者・二文字屋脩さんが、SNSの普及によって生じた人間関係の変容と問題点を考えていきます。

SNSに潜む承認欲求

「SNS疲れ」という言葉がある。

TwitterやFacebook、Instagram、LINEなど、いまや若者だけでなく中高年や老人までも使うようになったソーシャル・ネットワーキング・サービスだが、これに疲れを感じる人たちが少なくないという。

とはいえSNSの種類によって疲れ方にも違いがあるようだ。例えばTwitterではリツイートやフォロアー数の増減が気になって気疲れしてしまい、Facebookでは偽名での登録が禁止されているので内容によっては実名での投稿に躊躇してしまうらしい。

一方、Instagramでは「映え」を絶えず求める衝動に駆られ、“既読”表示機能があるLINEでは“既読スルー”にならないよう返信しなくてはとプレッシャーを感じたりするという。

投稿する側も受け取る側も、どちらも無理をしてしまっているのだろう。通信技術の革新と発展に伴って発達したSNSは、時間と場所を気にしないコミュニケーション方法として爆発的に普及したが、逆にその手軽さと便利さが私たちをジワジワと追い詰めているとは何とも皮肉なことのように思える。

ところで、こうしたSNSの爆発的な普及の背景には承認欲求があるといわれる。要するに、「誰かに認めてもらいたい」という欲望である。社会的存在である以上、私たちは誰もがこの欲望を持っている。問題は、SNSではその便利さゆえに、対面のときには抑えられていた欲望のタガが外れやすくなっているということだろう。

誰かと対面するためには、時間と場所をあらかじめ約束しないといけない。それに、対面であれば相手の表情や話し方、話題の内容からその時と場に適した距離感をとりやすいが、一部分を切り取った文字情報や画像情報しかないSNSでは適切な距離感を掴みにくい。だからなおさらのこと、「誰かに認めてもらいたい」という欲望が一方通行になったりする。すれ違いの欲望が満たされず、疲れてしまう。その意味で「SNS疲れ」とは、承認欲求の副産物だと言えるかもしれない。

直接的なコミュニケーションと違って、SNSは一部の情報しか得ることができず、距離感も掴めないからこそ、“炎上”や“誹謗中傷”も発生しやすくなってしまうのかも。

「つながる」ことへの違和感

さて、「誰かに認めてもらいたい」というのはとても自然な欲求だが、認めてもらうためにはつながらなくてはならない。でも、つながるためには適切な距離感というものがある。

だから「SNS疲れ」に陥らないためには、どのような距離感が適切かをその都度見極めることが必要不可欠だ。その意味で、距離感(=つながり方)は現代社会を生きる私たちにとって最重要課題の一つと言えないだろうか。


そんなことを考えていると、ある言葉が脳裏を過ぎる。「絆」だ。この言葉が日本社会を象徴するキーワードになったのは2011年である。実際、2011年のユーキャン新語・流行語大賞のトップテンにも選ばれ、京都の清水寺で発表される「今年の漢字」も、2011年は「絆」だった。2011年といえばもうお分かりだろう。そう、東日本大震災である。


私はあの日のちょうど1週間前にタイに渡航したので震災を直接経験してはいないが、ネットの情報や帰国してから目にする特集番組をみて、「絆」が震災からの復興とって重要な役割を担ってきたことは知っている。

実際、震災の1ヶ月後には当時の内閣総理大臣の名前で世界の主要新聞に「絆」という漢字が大きく書かれた感謝のメッセージが掲載されていたし、震災復興支援に関連するイベントでは必ずと言っていいほどにこの言葉を目にした。被災地を中心に、この言葉に勇気づけられた人は大勢いたことだろう。


しかし一方で、震災復興支援とは全く関係のないところで絆という言葉が「乱用」されているようにも思える。例えばあるハンバーグレストランでは「絆MAX」というメニューが出されていたり、街中で見かけたある政党の演説会のポスターやとある地方の信用金庫のポスターにも「絆」と大きく書かれていた。たぶん、私が知らないだけで、似たような例はたくさんあるだろう。また、これは学生に教えてもらったことなのだが、2017年頃からは「キズナアイ」という名前のバーチャルYouTuberが活躍しているらしい。

「絆」と同じように「平和」や「幸せ」とか概念的な言葉は、人によって想像するイメージは様々。そいうい汎用性のある表現は、都合よく解釈されてしまいそう。


こうした状況を目の当たりにして、私はこの言葉に強烈な違和感を覚えてきた。「つながること」が無批判に称揚されすぎているように思えたからだ(蛇足だが、こうした状況を私は「キズナ中毒」と呼んでいる)。

そんなことを考えるようになったのは、私が研究している人びとは、私たちとはまた違ったものとして「絆」を理解していたからだ。予め断っておくと、彼らの言葉に「絆」に当たる言葉はない。

しかし、絆を「人と人とのつながり」と理解するなら(実際、先の東日本大震災のメッセージ広告には、「Kizuna – the bonds of friendship」と書かれていた)、彼らもまたつながりの大切さをしっかりと理解している。でも彼らは、「つながろう」とは言わず、「つながり過ぎてはいけない」と言う。

私たちは異なる者同士が互いに向き合って結びつくことを「絆」というが、彼らはそれを「あまりよろしくない」という。なぜなのだろうか?

少数民族ムラブリの「近すぎず、遠すぎず」な距離感

私は「ムラブリ」という少数民族を研究している。彼らが暮らすのは、日本人にとっても馴染みのあるタイ王国だ。チェンマイという古都を中心に広がる北部地域のなかでも、ラオスと国境を接する地域に暮らす少数民族である(人口はなんとたったの500人)。


「ムラブリ」とは、彼の言葉で「森の人」を意味する。でもタイ人ですら彼らの名前を知っている人は少ない。しかし「ピー・トーン・ルアンって知ってるか」とタイ人に聞けば、ほとんどの人が「知っている」と答える。日本語に訳すと「黄色い葉の精霊」というミステリアスな名前で、ムラブリはタイで広く知られている。

タイ語で「ピー」は“精霊”、「トング」は“大きな葉っぱ”、「ルアング」は“黄色”を意味するから、合わせて「黄色い葉の精霊」。タイの北部に暮らす少数民族の中でも“原始的な文化が残っている民族”といわれていた記憶が…。

そんな彼らと二年間を過ごした。彼らの言葉を覚えて、彼らがどうやってこの世界を生きているのかを、彼らのものの見方から探ろうとした。そうした中で私が強く惹かれたものの一つが、彼らのつながり方である。それぞれの社会には適切な距離感というものがあるが、彼らのそれは、「近すぎず、遠すぎず」としか表現しようのない、不思議なものだった。


例えば、遠くの村に住む親戚が久しぶりに遊びにやってきた時のことだ。私たちなら、「よく来たね」とか、「久しぶりだね」といった言葉をかけて歓迎するだろう。でもムラブリは誰もそんなことをしない。積極的に家に招き入れたりすることも、お茶を出すこともしない。とってもドライに立ち振る舞う。

そんなドライな感じをもっとも象徴する言葉が、「お前次第だ」という言葉である。これは私が彼らと一緒に暮らした2年間で頻繁に耳にした言葉だが、彼らはよく、「お前次第だ」とか、「彼/彼女次第だ」と口にする。例えば森に動物を獲りに行くと言った人に「付いていってもいいか?」と尋ねると、「お前次第だ」と言われる。


私たちは過度に敵対的な態度(ツンツン)と過度に好意的な態度(デレデレ)の二つの性質をもつ様子を「ツンデレ」なんていったりするが、ムラブリは「ツンツン」しかない。そんな印象さえ覚える。そしてなんでそんな態度を取るのか、ずっと理解できなかった。

二文字屋脩

少数民族ムラブリたちの「近すぎず、遠すぎず」「ツンツン」な人との距離感が意味するものって一体何だろう??

▶︎彼らは言う「つながり過ぎてはいけない」と。【後編】を読む

※本記事は、二文字屋脩 2020 「ふたつの絆――つながらないとダメですか?」『ダメになる人類学』吉野晃 (監修)、北樹出版、pp. 110-113 を、大幅に加筆修正した上で転載したものです。

彼らは言う「つながり過ぎてはいけない」と。【後編】
みなさんは「SNSって疲れる...」と、感じたことはありませんか?前編に続き、文化人類学者・二文字屋脩さんが、タイに暮らす少数民族“ムラブリ”の文化から、私たちにとって適度な距離感(=他人とのつながり方)...

二文字屋 脩 プロフィール

早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター講師。博士(社会人類学)。「森の民」として知られるタイ北部に暮らすムラブリや、都心部で生活するホームレスの人々を対象にフィールドワークを行っている。近著に『逃亡者の社会学』(アリス・ゴッフマン 著、二文字屋脩・岸下卓史 訳、亜紀書房、 2021)、『人類学者たちのフィールド教育ーPBLと自己変容型フィールド学習の接合』(箕曲在弘・二文字屋脩・小西公大 編著, ナカニシヤ出版, 2021)がある。ソロキャンプに行っても、キャンプ生活が日常のムラブリの村で調査していたからか、周囲のキャンパーが何をしているのかが気になってしまう。お酒を溺愛。

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