「失敗」なき自己変容?

本書でもっとも重要なキーワードが「自己変容」です。すでに「自己の暗黙の前提が突き崩され、ものの見方が変わると同時に、自分たちの生きている社会を別様の仕方でみられるようになる」といった意味であることをお伝えしています。今回はこの自己変容が、「失敗」という言葉では判断のできない、むしろ成功/失敗という概念が通用しないものであることについて少しばかりお話ししようと思います。

本書では、複数の教育現場で繰り広げられている色々なプログラムを事例に、多種多様な自己変容のあり方とその可能性について紹介しています。もちろん、本書の目的は「自己変容の事例紹介」ではなく、あくまで「自己変容を引き出すための教育実践紹介」にあるのですが、学生に自己変容を促す上でも、これが終わりなき営みであり、そこに「失敗」という文字は存在し得ないことを理解しておくことはとても重要であると思います。

自己変容に失敗がないとはどういうことか。それは端的に、自己変容とは完結するような類のものではなく、つねに現在進行形の不断の営為であり、変容の仕方も縦横無尽かつ千差万別なものである、ということです。

もちろん、人によって変容の規模や深度は異なります。しかし仮に変容の規模が小さかったり深度が浅いように思えたとしても、それは「失敗」ではありません。ジブンゴトとして気づきを引き受け、それにしっかりと向き合うことでものの見方が変わること。それがその時の彼/彼女らだけでなく、その後の彼/彼女らにとっても重要な財産になるからです。だから正しい自己変容も誤った自己変容もありません。

しかしそれが「財産」となるのは、あくまで「自己変容がつねに学び手本人との地続きにおいて生じた」という条件下においてです。仲間とともに同じフィールドに赴いたとしても、そこでの着眼点や思考の方向性はそれぞれに違って当然ですし、その違いにこそ学び手それぞれの個性というものが発揮されます(同じ時期に同じフィールドに複数の人類学者が入ったとしても、そこで目にし、考える事柄が同じでないのと同様に)。

そうした個性を尊重せずに「もう少し頑張れば深まるから」という理由で教員が過度に介入し過ぎてしまうと、教員が意図した方向でしか考えられなくなる可能性もあります。そうなれば、それはジブンゴトではなくキョウインゴトであって、地続きの経験ではない以上、変容が起きたとしても、学び手本人にとってその衝撃は決して強いものではないでしょう。仮にその時は「そんな見方もあるのか!」と感銘を受けたとしても、学び手のその後の人生においてその経験が血となり肉となるとは思えません。

しかしだからこそ難しいのが、「どこまで教員が介入していいのか」です。「失敗がない」というのは、あくまで学び手にとってです。なのでこれについて「正解」はありません。学び手の自己変容をいかに引き起こすのかというのは教員にとっては確かに重要な課題ではありますが、どの程度押し、どの程度引くのかは、学び手とともに共有するフィールドの時間と空気、そして学び手との個別の関係に基づいて判断するしかないように思えます。

教員であれば、いや教員であるからこそ、「もう少し深めることができるのに」と考え、手間暇をかけて努力するわけですが、それが行き過ぎるとジブンゴトとしての自己変容を達成する機会を奪ってしまうことになりかねません。本書が「自己変容の事例紹介」ではなく、あくまで「自己変容を引き出すための教育実践紹介」に主眼をおいたのは、こうした理由にもよっています。

また、本書で紹介されている多種多様な自己変容も、プログラムの終了と同時に終幕を迎えるようなものではありません。自己変容がどのようなプロセスを通じて生じたのかを一つのストーリーとして描いてしまうと、それぞれのプログラムによってどのような自己変容が達成されたのかという、まるで始点と終点があるような印象を受けるかもしれませんが、本書の執筆者はそれぞれに、自己変容が終わりなき営みであることを常に意識し、フィールド教育に従事してきました。なので本書で紹介される教育実践も、一つの完成形ではなく、試行錯誤の途中経過報告に過ぎません。その意味で、これもまた終わりなき営みであると言えるでしょう。

学び手と同じ目線に立ちながらも、少し引いた場所から俯瞰しつつ、どのような言葉が学び手の今後の人生に豊かな実りをもたらす種になるのかを考えていくこと。学び手だけでなく教員側も考え、学ぶという意味では、これもまた、インゴルドのいう「共有に向かうこと (undercommoning)」の一つではないでしょうか(本書17〜19頁を参照)。

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